国会質問アーカイブ

5/26 憲法審査会(安全保障)

本庄さとしYouTube

質問要旨

(発言要旨)

○2015年「平和安全法制」の問題点

○自民党の9条改正案の矛盾

○フルスペックの集団的自衛権は憲法改正の限界を超える

○敵基地攻撃能力は武力行使の要件を満たすのか

○事実に基づく緻密で冷静な議論を

議事録

○本庄委員 会長、ありがとうございます。
 立憲民主党の本庄知史です。
 私は、その他の論点ということで、前回議題となりました安全保障について発言をさせていただきます。
 まず、二〇一五年に成立した安保法制、なかんずく限定的な集団的自衛権の行使についてです。これは大きく二つの問題があり、憲法違反の可能性が高いと私は考えます。
 第一に、長年にわたり国会で議論を積み重ねて確立した憲法解釈、すなわち、憲法九条は集団的自衛権の行使を認めていないという解釈を、従来の基本的論理はそのままに、内閣が結論を百八十度転換したことです。
 本審査会において、公明党の北側幹事は、憲法九条の下でどこまで自衛の措置が可能なのかを突き詰めて議論したなどと述べておられます。しかし、それは政府・与党内の閉じたプロセスにすぎません。
 二〇一四年七月一日に解釈変更が閣議決定されるまでの間、政府は、有識者懇談会で議論している、与党内で協議していると言って、国会では説明をしませんでした。そして、与党協議が調うや否や、その日のうちに閣議決定したのです。
 第二に、限定的な集団的自衛権が、実際は限定的ではないということです。
 安保法制の法案審議の中で明らかになったことは、地球の裏側でも、経済的な理由でも、グアムに飛んでいくミサイルでも、集団的自衛権の行使は可能というのが政府の見解であり、これは限定的とはほど遠いものです。
 次に、自民党の九条改正案についてです。
 新藤幹事は、本審査会において、自民党案でも、自衛隊の法的位置づけは現在の憲法解釈と全く同じ、必要最小限度の自衛権行使という解釈は引き継ぐなどと説明をされています。しかし、同じ自民党の石破委員は、自衛隊の存在を憲法に書くだけで何も変わらないと我々は考えているわけではないと発言をされ、二人の見解は全く食い違っています。自民党の九条改正案は、一体どちらの考え方に基づいているのでしょうか。
 新藤幹事は、安全保障は本質的に相対的なもの、必要最小限度の自衛力は我が国に対する脅威の内容によって変わるとも述べ、発言は矛盾に満ちています。
 そもそも、何十年も違憲としてきた集団的自衛権の行使が、ある日突然合憲となるような政権の言うことをうのみにできないことは、子供でも分かることです。
 では、憲法を改正すれば、いわゆるフルスペックの集団的自衛権も可能となるのか。私は、そうではないと考えます。
 仮に、フルスペックの集団的自衛権を認めることになれば、憲法九条の平和主義は、単に侵略戦争をしないというだけの規定となります。しかし、それでは諸外国の憲法と何ら変わりません。ウクライナを侵略しているロシアの憲法にさえ、侵略戦争はしない旨の規定があることを、委員各位は御存じでしょうか。
 憲法九条の平和主義は、自衛の名の下に行った、悲惨で愚かなさきの大戦の教訓と反省から設けられたものです。その根幹は、専守防衛、そして海外で武力行使をしないことであり、単に侵略戦争をしないという趣旨ではありません。
 したがって、フルスペックの集団的自衛権は、憲法改正の限界を超えると私は考えます。
 最後に、いわゆる敵基地攻撃能力について申し述べます。
 かねて、政府見解では、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは考えられない、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるとしてきました。
 しかし、我が国の防衛は、日本一国、自衛隊だけで担っているわけではありません。米軍が矛、自衛隊は盾という役割分担をどう考えるのか。その役割が変わらないとすれば、我が国自身による敵基地攻撃は、他に手段がないという要件と整合しないのではないかなど、疑問は尽きません。
 昨今、ウクライナと日本の安全保障を同列に論じるような発言が、本審査会を含め、相次いでいます。しかし、ウクライナと日本が置かれている状況は大きく異なります。
 例えば、ウクライナは、米国と同盟を結んでいません。したがって、米国は、ウクライナが侵略されても防衛する義務がありません。
 ウクライナの軍事費は年五十九億ドルで、日本の防衛費の十分の一程度にすぎません。ウクライナも日本も核兵器を保有していませんが、日本は、米国の核の傘によって核保有国に対する抑止力を維持しています。
 我が国の防衛、安全保障に対する不安や危機感が高まっていることは事実です。しかし、こういうときこそ、私たち政治家や国会は、いたずらに国民感情をあおるのではなく、事実に基づく緻密で冷静な議論を行うべきです。これは憲法改正についても同様であるということを申し上げ、私の発言を終わります。
 ありがとうございます。